2008年08月12日

「木鶏」

『荘子』達生篇に「木鶏」に関する話がある。

「昔、王の為に闘鶏を育てる名人がいた。 ある日、王は名人に聞いた。
『そろそろどうだ、もう戦わせてもいいかな?』
『いや、まだです。。 まだ空威張りして、自分の力を当てにしています。』

しばらくして、王は名人に催促した。
でも、名人は首を縦に振りません。
『まだ駄目です。 他の鶏を見たり、鳴き声を聞くと興奮します。』

しばらくして、王は又催促した。でも名人はにべもない。
『まだです。倣然と構えていて、血気が盛んでいけません。』

更に、しばらくして催促すると、今度は承知した。
『まぁ、いいでしょう。 他の鶏の鳴き声を聞いても平気です。
余りに落ち着いているので、チョッと見ると、木で彫った鶏としか思えません。
徳が充実したからです。 これでどんな鶏と闘っても問題になりません。
みな闘わずして逃げ出すでしょう。』




安岡正篤は、このくだりを読んだ時の感想を『童心残筆』に以下のように
書いている。

「私は思わず、膝をうって感嘆した。こうなくてはならん。この木鶏に比べると、
我々の平生は未だしである。我々の学問や義憤が果たしてどれほどの価値が
あるのだろうか。今、丁度、空威張りで気を恃んでいるだけではないか。
要するに、社会の風潮に反感を起こして、興奮している程度ではなかろうか。
少なくとも倣然と構えて、客気を盛んにしていないだろうか。
確かにかくの如き薄徳の私が私の生を傷っている。」

木鶏の寓話に直ちに自分の身が省みられる。

・・・・空威張りしているだけではないのか。 ただ興奮している程度ではないか。
傲然と構えて、客気を盛んにしてはいないか。 




読書が内省となり、覚醒となる。




            『人生の師父 安岡正篤』  神渡良平著 同文館 より一部抜粋

投稿者 waxman : 2008年08月12日 09:23

コメント

木鶏のようになるのが人間にとって理想なのか
どうかは難しい問題だと思います。

ただ、感情というものは思いを伝える
重要な表現手段であると同時に、
時に自分や相手や物事に色眼鏡という
フィルターをかけてしまいがちです。

私ももっと物事の本質を見極めれるように
なれたらといつも思っています。

投稿者 読者 : 2008年08月13日 14:52

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